大阪散策@

精藍所西朝陽館跡〜野田城

淀屋橋スタートで、中之島、福島を巡ります
源義経が屋島の戦いへ向かう途中、この地で軍議を開きました。
その地に松があったので、逆櫨乃松趾。源平合戦関係の地です。
中之島は江戸時代、大坂は天下の台所、各藩の蔵屋敷が並びます。

精藍所西朝陽館跡→蛸の松→雙松岡塾跡→中津藩蔵屋舗之跡→
福沢諭吉誕生地→逆櫨乃松趾→野田の藤→21人討死之碑→野田城跡



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大村藩蔵屋敷跡
明治天皇聖躅
五代友厚精藍所西朝陽館跡
五代友厚が良質の藍を作るため
大村藩の跡地に
精藍所を建設しました
そこを明治天皇が天覧
田箕橋の北詰に蛸の松
枝振りが蛸の泳ぐ姿に似ていた
屋敷の白壁と川面に映る松の
景色を楽しんでいた
名所の一つとして親しまれていた
雙松岡塾跡
雙松岡塾は、幕末に開かれ、
尊王攘夷を鼓吹した漢学塾
町奉行所に危険視され、
半年で閉鎖
豊前国中津藩蔵屋舗之跡
大阪堂島 玉江橋北詰
従是中津迄 海路 百三十里
 陸路 百三十五里
従是江戸迄 海路 二百四十八里
 陸路 百三十三里
すぐ隣には
福沢諭吉誕生地
大阪で生まれたが
中津藩士の父が亡くなり
中津(大分県)に帰った
一本北の道路に
逆櫨乃松趾
源義経と戦奉行の梶原景時が
松の下で軍議の評定
舳先に路をつけるのを
義経が反対した
野田の藤
4月の中旬に見頃を
迎えるようです
21人討死之碑 解説もありました
証如上人を守るため
討死しました
玉川駅すぐにある野田城跡
戦国時代 畿内一円に勢威をふるった三好一党がこの地に砦を築いたが
後に改築され 石山本願寺 ついで織田信長方の重要拠点となった
字 城之内 と呼ばれたこの辺りがその中心地である
もうひとつの 野田城趾 野田御坊極楽寺前です
大坂城がまだ本願寺であった室町時代に野田城〔北は玉川四丁目交差点
(旧名城の内)より東は恵比寿神社の東側(旧名弓の町)迄が城域で、
その中心地が当地(旧名奥の町)〕を訪れた本願寺第十世証如上人が
六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の
念仏者が証如上人を守護せん
として、二十一人が殉教された
(天文二年八月九日)これらの
討死衆の菩提寺として建立された
のが当寺極楽寺で、その後、
本願寺南御堂の掛所となり、
野田御坊と名付けられ、
今日に至っている。

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